金陵の歴史(蔵元紹介:金陵の由来)

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金陵の歴史

金陵の歴史

琴平に鶴羽屋と言う酒造家があり、これが後に「羽屋」次に「鶴田屋」となり延宝8年(1680年)羽屋平右衛門の名が、金刀比羅史料の中に出ている。
寛政元年(1789年)6月3日阿波の小松島の藍商である八代目西野嘉右衛門(かえもん)が、讃岐琴平の金毘羅大権現に参詣し、さくら屋で宿泊した。その折に酒造株の売りがあるのを聞き、交渉の末、鶴田屋の株を買収し酒造を始めた。
そもそも西野家は、万治元年(1658年)創業というから360年の歴史がある。
初代西野嘉右衛門が阿波で染料の藍の商いを始めたのが起こりだ。この家業はその後代々引き継がれるが、安永8年(1779年)七代目西野嘉右衛門が阿波芝生で酒造業を兼営するようになる。
寛政期になると気象土壌に恵まれた阿波藍の声価は諸国に定着し、西野家の「野上屋」は関東を地盤とした商いも軌道に乗り、財力・豪勢な商いは「阿波大尽」とまで謳われ、苗字帯刀を許されていた。

大正7年(1918年)十五代目西野嘉右衛門の時、それまで個人営業であったのを、酒造業は株式会社金陵西野商店に、藍化学染料、工業薬品は有限会社西野商店へと組織替えをして別々の道を歩んだ。

大正8年(1919年)には瓶詰工場を改築、名実共に完備した最新式の大能力工場と認められた。この頃の金陵西野商店は本店=琴平、支店=福岡・呉・高松・三豊・明石であった。

昭和9年(1934年)販売石数1万石となり、四国はもとより東京、大阪、呉、大連、北陸、山陰に販路を拡大した。
昭和23年(1948年)に現化学品事業部の有限会社西野商店と合併し、株式会社西野商店となる。
販売数量の増加に伴い良質の水を多度津町葛原の地に求め、
昭和42年第1期工事、
昭和44年(1969年)に最新設備の粋を結集した多度津工場が完成。
昭和57年(1982年)株式会社西野商店を西野金陵株式会社に社名変更し現在に至る。

酒類部は高松本社で事業統轄を行い、営業網として四国を中心に岡山支店・洲本支店・東京・大阪各営業所を置き、醸造元と問屋を兼ねる強みを生かし、地道な販売活動を通じて自醸酒「金陵」を育て上げている。
一方、化学品事業部は大阪本社で統轄、東京・大阪・名古屋支店、北陸営業所でそれぞれ営業活動を行っている。

金陵は江戸時代から“讃岐のこんぴら酒”と呼ばれ、海上交通の守り神・金刀比羅宮の御神酒として地元讃岐(香川県)だけでなく、全国から集まるこんぴら参りの方々(おそらく’森の石松’も含まれる)に愛飲され続けている。
今日にいたっても尚、より多くの皆様に喜んでいただけるよう、品質一筋230年の歴史で培った伝統・技・こころを継承し、酒造りに励んでいる。
すなわち、“青は藍より出て藍より青し”という諺のごとく、“出藍の誉れ”を目指して日々切磋琢磨している。


※日下部鳴鶴先生の筆になる「金陵醸造元」と大書した木製の大看板(金陵の郷/琴平本店)